沖縄のガマ・戦跡案内
 
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ヌヌマチガマ八重瀬町の田園地帯のなかにあるガマ(自然洞窟)です。傷病兵を治療する病院施設として使われました。
全長約500mの洞窟で、西側(病院施設側)は「ヌヌマチガマ」、東側は「ガラビガマ」と呼ばれます。

 

沖縄戦当時、八重瀬岳中腹に野戦病院(第24師団第一野戦病院)がありました。ヌヌマチガマは、その分院(新城分院)です。
ヌヌマチガマには1,000名以上の傷病兵が収容され、軍医・看護婦・地元の女子青年などが昼夜を徹して活動しました。しかし薬や麻酔剤も不足して、満足な治療はできませんでした。

 

沖縄戦では、多数の女子学生が「学徒隊」として、看護や炊き出しなどの活動に当たりました。沖縄県立第二高等女学校の4年生の生徒たちも「白梅学徒隊」として動員されます。
沖縄戦が始まった1945年4月、「白梅学徒隊」のうち5名がヌヌマチガマに派遣されました。学徒隊は、負傷兵の治療や手術のときに明かり(ろうそく)を持ったり、傷病兵の排泄物の始末、切断された手足の処置など、過酷な任務に当たります。

6月3日、米軍が那覇市首里まで侵攻してきたので、この病院は閉鎖されます。身動きできない傷病兵約500人には青酸カリが投与されました。毒薬を飲み込めない兵や、薬が効かず苦しんでいる兵は、注射や銃・剣でとどめをさされました。
「白梅学徒隊」は解散となり、「鉄の暴風」とよばれた激しく銃弾・砲弾のふりそそぐ戦場で、生徒たちはバラバラに逃げまどうことになります。最後まで勤務していた「白梅学徒隊」46名のうち、22名が命を落としました。

ヌヌマチガマのなかは、湿った泥で汚れやすく、すべりやすい状態です。汚れても大丈夫なジャージや軍手、動きやすい運 動靴などを必ず用意してください。懐中電灯や、頭部を守る帽子もあったほうがいいでしょう。



ヌヌマチガマのまわりは、地元の皆さんが生活し農業している地域です。騒いだり、周辺の畑を踏み荒らしたりしないよう注意してください。