沖縄のガマ・戦跡案内
 
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日本軍の沖縄守備隊は、米軍に追い詰められて糸満市の摩文仁(まぶに)まで撤退しました。摩文仁の丘は、多数の兵士・住民が亡くなった激戦の地です。
摩文仁の周辺には、遺骨収集や調査がまだ進んでいない壕が多くあります。平和記念公園内の納骨堂近くにある壕も、そのひとつ。海岸近くの急斜面のなかにあり、ジャングルのような原生林に囲まれているので、なかなか人が近づけないのです。
 
壕があることについては以前から知られていましたが、日本軍が陣地として使った軍隊壕だったと見られ、多数の人骨や武器弾薬が発掘されました。小さな子供の骨もあったので住民の避難壕としても一部使われていたようです。戦後何十年もの長きにわたって人知れず忘れ去られてきたご遺骨を前に、亡くなった兵士・住民の皆さまのご冥福を祈らずにはいられません。

壕内から出てきた多数のご遺骨

 
【写真左】壕内に残された武器・薬品・日用品。【写真右】靴・缶詰・砲弾のかけらなど。炊事で火を使った跡もありました。
 
 
沖縄守備隊の牛島司令官が1945年6月22日に自決して沖縄での組織的戦闘が終わり、さらに8月15日には日本がポツダム宣言を受諾して降伏しました。しかし10月中旬ごろまで沖縄各地で、生き残った兵士たちが米軍への抵抗を続けました。納骨堂近くの壕も、最後まで抵抗を続けた兵士たちの拠点のひとつだったと思われます。
 
 
2013年2月、神奈川県の栄光学園高等学校の修学旅行で、この壕の現地調査をすることになりました。安全に行き帰りできるルートをすでに確立しているとはいえ、未経験の高校生を連れて行くのには不安もありました。
しかし事前の準備と打ち合わせをしっかりおこない、希望者のなかから30名を選抜して、現地調査は無事成功に終わりました。高校生が自分たちで積極的に現地調査の用意を進め、高い目的意識を持って事前学習に取り組むことで、とても内容の深い平和学習ができたと思います。


出発前に納骨堂の前で祈りを捧げます。
 

原生林を抜けて、壕にたどり着きました。