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2022年2月26日(土曜)05:27に公開
(沖縄タイムス 2022年2月24日)
八重瀬町安里の壕で見つかった沖縄戦戦没者の遺留品について、沖縄タイムスで報道されました。
この壕は、終戦直後に遺骨が周辺に散らばっていたけれど遺骨が収集されたという話を聞いたことがないという証言がありました。
昨年12月ごろから調査を始めて、壕の入口を見つけました。地権者の許可を得て壕内部に入ると、多数の遺留品が見つかりました。近年めずらしいほど多くの遺留品がありました。
戦後77年、沖縄復帰後50年がたっても、まだ土の中で眠ったまま収集されていないご遺骨や遺留品がたくさん残されていることは問題です。国の責任でしっかり最後まで戦後処理することが必要と考えます。
多数の遺留品の中には、名前が記載されたものが6つありました。
(1)「高橋」と刻まれた印鑑
(2)「川本」と刻まれた印鑑
(3)「ナガミネ」と記載された飯ごう
(4)「浜口」と記載された飯ごう
(5)「藤ムラ」と記載された飯ごう
(6)「松藤」と記載された万年筆
印鑑2つ。それぞれ「高橋」「川本」となっています。
飯ごうのフタ。それぞれ「ナガミネ」「浜口」「藤ムラ」と刻まれています。
右から3本目の万年筆に「松藤」と記載されています。
ぜひ遺族のもとにお返ししたいので、心あたりのある方からの情報をお待ちしています。
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2021年3月01日(月曜)16:33に公開
八重瀬町具志頭の山林で遺骨収集作業をおこない、戦没者とみられる遺骨1体分が発見されました。付近は沖縄戦時に陣地壕があった場所です。
身元が判明して、遺族のもとにご遺骨をお返しできることを願っています。
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2020年2月25日(火曜)16:22に公開
糸満市摩文仁の丘周辺で遺骨収集作業をおこない、沖縄戦時の日本兵の認識票4枚を発見しました。そのうち1枚には名前が記載されており、三重県出身の戦没者であると思われます。
[追記]後日、認識票はご遺族のもとへと返されました。
【新聞報道】
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2017年3月01日(水曜)16:10に公開
八重瀬町にある「安里の壕」にて戦没者とみられる遺骨1体分が発見されました。この地を拠点としていた「独立混成第44旅団工兵隊壕」の生存者のご子息からのご連絡により、遺骨収集作業が実施されました。
[追記]後日、ご遺骨の身元が判明して、ご遺族のもとへと返されました。
【新聞報道】
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2016年2月28日(日曜)16:09に公開
沖縄戦では、沖縄県立第二高等女学校の4年生の生徒たちが「白梅学徒隊」として動員されました。「白梅学徒隊」はヌヌマチガマをはじめ各地で看護活動などをおこないました。
このたびヌヌマチガマの手術壕が新しくきれいに整備されたのにともなって、白梅同窓会の方々をご案内することができました。
八重瀬岳の植樹祭会場にて。マイクを握っておられるのは白梅同窓会副会長の武村さんです。
手術壕内にて記念撮影。写真の左から2番めが松永です。
手術壕の階段前にて。右から3番めがNPO 法人沖縄鍾乳洞協会の理事長である山内平三郎さんです。
→ヌヌマチガマについては、こちらの記事もご覧ください。
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2015年6月22日(月曜)04:50に公開
ヌヌマチガマでの平和学習を実施しているNPO法人沖縄鍾乳洞協会は、沖縄県内各地の鍾乳洞などの調査活動をしています。画像左側は、協会の活動を紹介した新聞記事です。(『琉球新報』2013年10月28日付)
以前に沖縄鍾乳洞協会のスタッフが、八重瀬町のフィッシャー群を調査・発見しました。フィッシャーとは岩の割れ目のことで、八重瀬町の「具志頭・多々名城地溝帯」は無数のフィッシャーが連なる全国でも珍しい地形となっています。
今では、密林の中のフィッシャー群を探検できる「熱帯カルストツアー」も試験的に実施しています。
オキナワグラフ(2014年1月号)でも、画像右側のように「具志頭・多々名城地溝帯」の特集記事が組まれました。
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2015年6月22日(月曜)04:48に公開
糸満市摩文仁にあるガマのひとつに、戦死した兵士の名を刻んだプレートがあります。ご遺族が制作されたものと思われます。
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2015年3月23日(月曜)13:31に公開
2015年2月、摩文仁でのガマを調査しました。沖縄戦当時の銃弾・手榴弾・薬品のビンなどが出土しました。
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2015年3月22日(日曜)01:15に公開
2015年2月、沖縄本島北部・中部のガマを調査した時の写真です。